2018/03/14

1963年生まれの自転車通学と新聞配達の記憶


前回に続き まだまだ1970年代後半の事です。

中学2年になってから 友達に新聞配達のバイトしようと誘われ、バレーの練習
も朝はないので早起きさえできればできそうな気がしたのではじめました。
新聞販売店までは家から2kmほどはなれていて 5時半くらいまでに行って そこ
から配達を1時間くらいする作業です。学校に遅刻してはいけないので7時くら
いまでには もう家に帰れるようにしなければなりませんでした。
天候によっては1時間で終わらないときもありますし、チラシが多いときは時
間もかかりました。
でも学校に遅刻したって事はなかったと思います。

配達は自転車でやってたんですけど、最初の頃は 母親の今でいう「ママチャ
リ」でやってたんですけど、結構 坂とかがキツくて 自分専用の自転車を買っ
てもらいました。
一部新聞配達の給与から負担金がありましたけど。
まぁ、デザインはこのような感じだったと思います。ミヤタ自転車というのは
間違いないです。ハンドルを「一文字」というものに付け替えたり 新聞配達
の時に便利なように折りたたみ式のカゴをつけたり。行動範囲がぐっと増えま
した。
5段変速で坂道もずいぶん楽になりました。
新聞配達で得たお金は、主に自分の小遣いでした。一日100件弱 配達して
9,000円くらいもらえてました。それでも中坊にとっては大金でした。
これで、服を買ったりレコード(LP)買ったり。LPレコードは2,800円だった
と思います。コメットさんでおなじみの大場久美子のファンでしたから。あと
キャンディーズも。

3年生になると事情があって 家を引っ越す事になります。
学校から 3キロほどはなれた場所で、今迄近すぎて自転車通学は禁止区域だっ
たのですが それからは念願の自転車通学ができるようになりました。
しばらく そうしてたんですが 自転車通学は孤独だという事を自分で悟りま
す。
夏の制服はこんな感じでした。女子のスカートこれでも短いほうです。
なので、2学期から友達と時間はかかったけど 徒歩通学してました。
女の子と一緒に帰ることもできましたし。

通学路の風景は、今でもあまり変わってないけど 田んぼのまん中にまっすぐ
伸びた道があって途中 なにもないし暗くなると 外灯もないので 真っ暗の道
です。
車も 会う方がめずらしいという 交通量でした。
もうすこし前までは この道の終わりには 吊り橋がかかってあってなんどか渡
ったことがありますけど足場板2枚くらいの広さ(600mmくらいだと思います)
で 真下がみえるというちょっと 怖い橋でした。そのうえ 男には関係ないで
すけど 「痴漢」がよく出ていたという事です。
この通学路はひとりで帰るのはつらかったです。

でも、家が遠くなると結構 大変なんですけど 帰りに寄り道ができる機会がふ
えます。友達の家に寄って帰ったりとか 悪いことばかりじゃなかったです。

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