2018/04/09

1963年生まれ25歳分かれ道に遭遇


1988年、この年の春に いつも可愛がってくれてた祖父(母の父)がなくなった。
お葬式のために久しぶりに 中学生の頃まで住んでたところに 帰ってきた。24才の時だから10年近くになる。近所の人たちは、僕を見る目が違う。嫁をそんなに早くもらう様な男じゃなかったからだ。奥さんと子供を連れてる。それが異様に見えたのかもしれない。
色々とあれこれ聞かれたが、立派になったねと褒めてもらえるが 全然立派にはなってない。そして、この年までで また自分の道を大きく曲がったともいえる。滅多に集まる事のない親戚が集まったが、アメリカの叔母は高齢のために帰ってこれないという事で 生花や花輪を置いていたが 名前が 田舎であるのに アメリカ名で掲げてあったのが笑える。知らない人からは「じいさんに飲み屋のねぇちゃんから花が届いとる」なんて言われる。兄の子供が うちの子供よりひとつ上で、いとこ同士仲良く遊んでたが 声がそっくりすぎでびっくりした。姪っ子は関西で育ってるからうちの子とは 語尾が違う。電話でなんどか話したけど、声が似過ぎてて間違えそうだった。血のつながりってやつかぁって思った。
子供が生まれてから25才までは、自分の親兄弟の近くに住んでいた。
食事は夫婦交替でやってましたが子供優先です。
歩行器は誰かのおさがりだったのですが、一気に行動範囲がひろがるので目が離せません。
この間、3交代の仕事をやってきてる。
朝番、昼番、夜勤、休み2日毎変わるというしくみだ。年末年始は仕事が止められないために 数人は休みはなくいつもの通りの勤務だ。その数人の1人でもあった。
仕事は、覚えることもたくさんあって充実してたけど、家に帰ると 子供と奥さんがいるので まじめに 働いて食べていけるように頑張らないといけない。自動車はどうしても必要なのでマーチを持っていたが、
元キャンディーズの伊藤蘭さんのCMでみたものです。
他のスクーターに比べるとひとまわり小さいようでした。
通勤はバイクでも出来るのでいつの間にか 嫁が買ってた スズキ蘭というスクーターで行くときもありました。主に昼の勤務の時だけですが。バックミラーがすぐに盗まれちゃうんですけどね。
自分一人で遊びに行くこともなくなったし、欲しいものがあっても自分だけでは決められない。洋服も自分で選ぶとかできなかったようだ。それでも、やっぱり家族がいるのはいい。
しかし、少しずつ嫁に対して 不満も出てきたのは確かだった。
まずは 友達の扱いで、高校の時からとても仲のよい友達がいて そいつも結婚して うちへ夫婦で遊びに来ることもあった。友達の奥さんが 気にいらない様で扱いがなんか みてて嫌だった。嫁の友達が来たときとは全然違う。それに うちの兄弟や親戚が来ると嫌がる。
夜勤の時は、昼間寝てる事があって その時に嫁の友達が遊びに来たりしていたが 僕は嫌な顔をした事がない。もしかしたら嫌な顔してると思われたかもしれないが。来たら子供も可愛がってくれるし、どっちかといえば歓迎だった。
しかし、嫁は僕の性格とか気持ちを全部わかってるような態度を他人には示す。それが気に入らなかった。それは ずっと続く。
とにかく 子供がいるので、前にも書いたけど 自分はそれで幸せだった。
NHKのニコニコぷんのキャラクター「じゃじゃまる」のぬいぐるみがないと寝ないのですが
あれば、すぐに寝るので親としては大事なアイテムでした。2代目も買ったと思います。
毎日成長していく姿を見る事が出来た。言葉もよく話すほうだったから
余計にかわいい。
しかし、仕事が 平日の休みが多かったので、なんとなく自分自身が置き去りにされた感じがあったから3交代の仕事をどうするか考え出した頃、嫁の母親がじきに定年退職をするという話があって、商売をすると嫁から話を聞いた。
3交代の仕事もいいけど、一緒にやってみようと。
今、思えば 自分の親兄弟の近くに住みたかったんだなと 思う。 そういえば 盆正月にはうちの親のところにはいかないけど 自分の親のところにはかならず 泊まりがけで帰るなぁとか。そのときは そんなに感じてはなかったけど。
そして、3交代の仕事をやめて 家族3人で北九州市へ引っ越しました。 ここが自分にとって大きな分かれ道だったと思います。後悔しても仕方ないけど...
自分がその道をうまく通れなかっただけで。 たしかに分かれ道は過去にも数回あったけど今回は 複雑な道に行ったと思います。

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