2018/03/24

1963年生まれの高二アルバイトの記憶

事故にあってから、まず高校のバレー部は退部させられ 新聞配達も入院中にかわりの人がはいった為、やめる事になりました。
夏休みになると、歩くのもずいぶん元に戻って(走るのとあぐらをかくのは無理でした)友達に誘われ、夕方5時から10時迄 レストランの皿洗いのバイトをすることにしました。
時給350円です。5時間働いても1,750円ですが 当時は新聞配達の5倍くらいもらえてたので こっちのほうが断然いいと思ってましたけど、時給に換算するとたいして変わらないようです。

仕事内容は 食器の汚れを軽くおとし 食洗機にいれて乾燥が終わったら元の位置に戻すと単純な作業でしたが、慣れてくると他にもごはんを炊いたり(10升炊)簡単な調理をしたり ビアガーデンもあったので ビールをお客さんに持っていったりで 結構楽しかったです。
比較的簡単な仕事なのでお客さんがまとめてこない限り自分のペースで出来ました。
夏休みだけの話でしたが、夏休みが終わる頃になって 店長から学校終わってからも来てくれないかと言われたので、僕だけそうしました。友達は親が反対したようです。

この年は1980年で、「松田聖子」とか「たのきんトリオ」が出てきてまして 女の子の髪型が ほぼ同じような感じで男も としちゃんやマッチみたいな髪型が多くなりました。
学校はズボンの生地が普通の3倍くらいいる だぶだぶの「ドカン」とか 髪型はそり込みをいれてオールバックにしてる者が数人(半数くらいかな)いたなか 僕はかろうじて普通の子でしたので 2学期からは 皿洗いじゃなくホールに出されます。
俗にいう「ウェイター」です。

しかし、上は制服のようなものがありましたが ズボンは学校ではいてるズボンでした。なので 巾の広いズボンはダメです。
3時半に学校がおわり、帰りの途中(家とは反対方向ですが)公衆電話からレストランに電話をすると、店長が毎日車で迎えに来てくれました。そして夜は賄いがあるので食事の心配もなかったです。帰りはまた車で コックさんとか一緒ですけど 家まで送ってくれます。
そうなると、家に帰ると風呂にはいり、寝て学校に行くという生活になりました。昼は学食で友達と食べてましたし朝は、ほとんど食べなかったので。

このバイトしてたレストランですけど、2階はサウナになっててたまに、食事の注文があると配達にいかないといけません。女のサウナには いけませんので 男のサウナだけですが、入れ墨をいれた人達ばかりなので 光景がすごかったです。
普通に持っていってるようにしか、描けませんでしたが色々とちょっかいされてました。
その旨の人達の集会というのが 一度あって200人集結して同時に食事に来たときが 一番大変でした。(レストランはせいぜい60人くらいの席しかありません)
食事が終わると交替で 入れ替わりはいってくるので 店の食材もすべてなくなるという状況で、最後頃の人は食パンだけとかになりました。
全テーブル20席あったのですが、全部こんな感じでコックさん達も相当大変だったようです。
片付けが終わったら食材が何もないので、早く帰る事が出来ました。
おそらく上の人だと 思いますが ホール廻りであちこちに配膳してると「にいちゃん、ちょっと来い」と呼びつけられて 文句でも言われるんかなぁと思ってたけど
「若いもんが、なんか文句でも いうてきたら すぐ俺に言ってこい」と言われ、それからなんか安心して仕事ができました。
帰ったあと、店内は 台風が通過したあとみたいな状況になってました。

ほかにも たくさんエピソードがありますが別の機会に紹介します。このレストランのアルバイトによって 社会人になっても沢山役に立つ知識や経験を身につける事ができました。

※レストラン店内に レコード専用(CDはまだ登場してない)ジュークボックスがあり たぶん100円だったと思いますが これにバイトの子はお金をつぎ込んでました。ディスコミュージックが流行で アラベスク(ハローミスターモンキーとかハイライフ等)やボニーM(怪僧ラスプーチン、サニー等)ソウルドラキュラ等 よく聞いてました。

あとで、有線に電話リクエストすると数分後に再生される事を知り、ガッカリします。電話代10円だけですみますもん。

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